2012年度合宿(一日目)①

学部生発表1+全体討論①

合宿1日目(2012年5月13日20時〜)、ジークフリート・レンツの「遺失物管理所」を共通テキストにした2年生の発表が行われました。

発表の形式は、はじめに2年生代表として橋本さんと愛甲さんからそれぞれ自身の考察を述べてもらい、そのあと全体で自由討論が行われました。二人の発表は非常にレベルが高く、また自由討論は時間を忘れて盛り上がりました。以下に、二人の発表の要約に自由討論で出された意見を交えて報告します。

橋本さんの発表

橋本さんはまず、遺失物として届けられたものに「ハコ」が多いことに注目します。「ハコ」の中から落とし主の情報が得られると同時に、その情報自体が物語となってこの小説全体を構成しています。この「遺失物管理所」は長編小説という形をとっているけれどもその実、「落とし物短編集」なのではないか、という指摘は、そのあとの愛甲さんの発表な中で、主人公ヘンリーが収集しているしおりが読書を一時中断する、話(時)を区切るといった連想を持つということとも関連性があるのではないかと思われます。

さらに橋本さんは、遺失物が紛失者以外の人間にとっては、ただの「モノ」であるけれども、紛失者にとってはかけがえのない価値をもつ「物語的存在」であると述べます。同様なことが人間にもいえ、それは遺失物管理所の同僚ブスマンが退職しそうになるのをヘンリーが止めようとする場面に端的に表れているという意見でした。しかし後半の自由討論で、そうではなくヘンリーはブスマンを助けようとすることによって「いい人」を演じようとしたのではないか(結局ヘンリーは遺失物管理所にとどまることになり、彼は承諾していませんが、出世のチャンスまで舞い込みます。)、ヘンリーは最後まで「たいていのものは取り替え可能(p.11)」という考えを捨てなかったのではないか、などの反対意見が出され議論が盛り上がりました。

次に橋本さんは主人公ヘンリーと物語の途中から登場するフェードル・ラグーティン博士が純粋さ、純朴さを持っている点で共通していると指摘します。この小説のなかで、ヘンリーは明るく無邪気で子供っぽく、刹那的な生き方をしている人物に描かれ、一方のフェードルはバシュキール人で数学者、ドイツ人よりも美しい(つまり古風な)ドイツ語をしゃべる人物として描かれています。ヘンリーとフェードルのような純粋、純朴な存在が、社会に認められることへのレンツの期待を橋本さんが指摘したのに対し、自由討論では、二人が暴走族に襲われているときに団地の住民は助けなかった場面では二人のような存在を社会が排除しようとしているのを暗示しているのではないかという意見が出されました。

愛甲さんの発表

はじめに主人公ヘンリーの特徴的な性格についての考察がありました。天真爛漫で無邪気な反面、同僚の既婚女性に執拗に迫るヘンリーを否定的にみる人が愛甲さん以外にも多くいました。次に愛甲さんはヘンリーと彼の同僚とのあいだにみられる歴史認識の差について述べます。あとの自由討論でこのことは、単に若者と年輩者との間の歴史観のギャップにとどまらず、ヘンリーの歴史的コンテクストから離れようとする態度が起因しているのではないか、という意見が出されました。

裕福な家庭に生まれたヘンリーは家柄にとらわれず、素の自分を評価してほしいという欲求があり、そのことは空間的なことには執着するが、時間的なことには無関心な態度(具体的にはヘンリーは管理所に届いた遺失物には強い興味を示しますが、遺失物が持ち主の手に届くと興味をなくしてしまいます。)に表れているのではないか、ということでした。

歴史的連続性の中で自分自身を理解しないことはフェードルの専門である数学にも歴史性のなさという点で共通しているのではないかという意見も出ました。やはり、類は友を呼ぶのでしょうか。そのほかにも、この物語には季節描写がいっさいなく、続編も簡単に書くことができる、主人公のヘンリーの成長を描いているわけでもなく、ストーリーも読者にとって謎なまま宙吊りになっている・・・などなど様々な意見が出されました。ヘンリー自身「自分自身が遺失物みたいな気がしているんだよ(p.263)」と発言していることから、この「遺失物管理所」という小説自体が、誰も取りに来ない忘れ物としてとらえることができるという意見もありました。

また、ヘンリーと暴力団との関係について愛甲さんは、ヘンリーが暴力団をただ否定するのではなく、その境遇について思いをはせ、彼らとの対話を試みたことに肯定的な見方をしていました。自由討論では小説のなかでヘンリーと暴力団との対話がいっさい描かれず、最終的にヘンリーがホッケーのスティックを手に暴力団に立ち向かったことが論点となりました。このことはヘンリーが結局は暴力を同じ暴力で解決しようとしたとも読み取れます。しかし、そのあと団地の住民たちが暴力団をやっつける場面でヘンリーは全く喜ばずむしろ嫌悪していることから、ヘンリーは自分の行動を暴力ではなく抵抗とみなしていたのではないか、という意見やヘンリーと暴力団は社会からつまはじきにされているという点で共通性があり、だから暴力団の受けた仕打ちをヘンリーは自分のことのようにかんじたのではないか、といった意見が出ました。

さらに人種差別的発言がフェードルの帰国の原因になったことについて、愛甲さんはこうした偏見に満ちた態度とヘンリーや姉のバーバラ、また民族博物館の学芸員の偏見がなくフェードルに肯定的な態度が対照的だと述べます。しかし、自由討論では文化的に遅れていると思われている東方出身のフェードルが、そのステレオタイプなイメージからほど遠い成績優秀で上品な物腰だったからこそヘンリーとバーバラはフェードルとつきあうようになったのであり、どこかこの姉弟のフェードルを見る目に上から目線な態度があるのではないか、という意見が出されました。

最後に愛甲さんは原題“Fundbüro”のFundが発見という肯定的なイメージなのに対し日本語訳では「遺失物管理所」というネガティブな表現になっていると指摘します。後の討論では、遺失物管理所のもつ出世街道から外れた人のふきだまりのような暗いイメージと「遺失物管理所」という語のもつネガティブな響きがマッチしているという意見がありました。

自由討論の最後にこの小説でレンツの物語論が展開されているという意見が出ました。具体的なページ数として、p.118,190,230,280があがりました。残念ながらここでタイムアップとなってしまいましたが、議論し尽すことができないくらいさまざまなことを考えさせる小説であったと思います。
文責 2年徳永

遺失物管理所 (新潮クレスト・ブックス)

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